カイケンコーポレーション

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【Featuring SAiN70】専門家じゃない人が考えた持続可能な暮らし

2021.09.29

    ハザ架け_2021_0912

     

     

    レジ袋が有料化になって、EV(電気自動車)も随分身近になってきました。

    そして、いろいろなところで、「環境に優しい」とか「持続可能な社会」という言葉を聞く機会が増えてきました。

    なんだか、新鮮な取り組みの様に聞こえるけれど、不思議と懐かしさも感じるのは私だけでしょうか。

     

    「大雨が続いて、この夏は涼しいと思ったけれど、やっぱり暑いなぁ。」

    「もう九月だと言うのになぁ。暑いわ。」

    こんな会話を近所の方としている時期に、家庭菜園の冬野菜の準備は始まります。

    先日、土を掘り起こして、当たり前の様に石灰をまいたのですが、ふと、

    「そう言えば、祖父が石灰をまいているのを見たことがなかったなぁ。」

    と思ったのです。

    山奥に住み、川で野菜を洗い、自宅には湧き水を引いて生活をしていた祖父は、なぜ、石灰をまかなかったのでしょう。

    こうした暮らしの中に、きっと「持続可能な社会」のヒントが詰まっているような気がします。

     

    【家庭菜園でも石灰をまくのは、土が酸性に傾くのを防ぐため】

     

    野菜づくり・家庭菜園の本を読むと、土作りをする時に「石灰をまく」と書かれています。理由は、

    ・最近の雨自体が酸性傾向にある

    ・化学肥料に酸性のものが多い

    ためだそうです。

    以前、雨水にBTB水溶液を加えると黄色になったので、雨は酸性に傾いていると確かに言えます。

    そんな雨にさらされるので、土が酸性に傾きやすいというのは十分に納得です。

    それを中和させるのに、アルカリ性の石灰が必要だということです。

    こうした性質があるのであれば、石灰をまくことは必須の様に思うのですが、祖父は、なぜ、石灰をまかったのでしょう。

     

    石灰_2021_0912

     

    【灰と卵の殻を大切にしていた】

     

    地域性なのか、時代の影響もあったのか分かりませんが、祖父の家の縁側の下には、十羽ほどの鶏が生活をしていました。

    卵が必要な時には、縁側の板をめくれば、美味しい卵が食べられました。

    今、思うと相当贅沢なものを当たり前の様に食べていたんだなぁ…と感じます。

    そして、割った卵の殻は、所定の入れ物に必ず入れる様に言われました。

    また、藁や木を燃やした灰も捨てることはなく、几帳面に集めて、卵の殻と一緒に畑にまいていたのです。

    灰は適度なアルカリ性で、卵の殻は、野菜に必要なカルシウムを補う役割をしていたことが、後になってやっと理解できたのです。

    さらに、祖父の畑には、たくさんのシマミミズがいました。

    「ミミズもいい仕事をしてくれるから助かるわ。」

    こんなことをよく言っていましたが、私は、魚釣りの餌がたっぷりとある便利な畑というくらいの理解しかしていませんでした。

     

    今になって、祖父の畑の様子を思い出すと、見事に循環し、持続どころかどんどん質の高い畑になっていたことが分かりました。

    縁側の下で暮らしていた鶏の側面だけを見ても、見事な循環が生まれていたことが分かります。

     

    循環_2021_0912

     

    もちろん、祖父は、「循環型の社会が大切だ」なんて考えた事もなかったと思います。

    ただ、身の周りにあるものも、できるだけ有効に使おうとし、自然がその期待にしっかりと応えてくれていたのだと思います。

     

    【答えはすぐ近くに転がっているかも】

     

    最近では、環境に優しいと言われる省エネの家電・ソーラーパネルや蓄電池、EVなど、優れたものが続々と出てきています。

    けれど、新しいものが出現すると同時に、私たちは廃棄の問題にも直面します。

    例えば、ソーラーパネルやEVのバッテリーもどの様に廃棄するのかが、大きな課題だと言われています。

    この様な課題を改めて見ると、現代の素晴らしい技術でもってしても難しいことを、自然は当たり前の様にずっと繰り返してきたことに気付かされます。

    それにしても、科学の専門家でもない祖父は、なぜ、現代の私たちが難しいと感じることを当たり前のようにできたのか?

    本当の答えは分かりませんが、常に鶏の声を聞き、風を感じながら刈り取った稲をハザ架けするタイミングを見極める様なことをしていたために、灰や卵の殻、鶏糞などの有用性を「なんとなく」分かっていたのだろうと思います。

    現代では、意識をしないと土にさえ触れることも難しくなってきましたが、時々、自然そのものに触れて、「なんとなく」をたくさん感じることが大切だと思います。

     

    平安時代の身分の高かった女性は、感情を読み取られない様に眉を額の上の方に描いたと言われています。

    これを反対側の視点から見ると、わずかな眉の動きでも、多くのことを人は読み取る力をもっていたと言えそうです。

    現代はいろいろな事が数値で表現され、数値がかなりの説得力をもっている様に感じられますが、数値がなくても「なんとなく」を信じても大丈夫ということは、自然が教えてくれる様に思います。

     

    おまけ01_2021_0912

     

     

    京都府宇治市

    渋谷浩一郎